
杉本家の横側の土塀 写真1の杉本家の玄関の 左端にあたる
「この路を上って行くと広い道に出て道明寺天満宮が近くにあります。
杉本家は地主で土地を1000坪位所有していましたが、第2次世界大戦後の農地改革によって土地を失いました。」(白石美知子様談)
杉本家の写真3 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)

杉本忠道氏(牧野克次の甥)と妻、重野様の子供達
長女美知子様(後側の方)・左側より忠行様(次男)年子様(三女)信子様(二女)
杉本家の写真4 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)

写真は昭和14年頃の杉本家
杉本家の庭 写真5 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
杉本家の写真6 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
杉本家の庭 写真7 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)

庭にあった池の前で 杉本タミ(杉本忠治の妻・杉本忠道の母)と親戚の男性
「池には鯉が5~6匹泳いでいた カエルではなくて名前は出て来ないけど
きれいな鳴き声を聞かしてくれた事も思い出します。」(白石美知子談)
杉本家にはお手伝いの女性が2人おられた。
杉本家の写真8 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)

杉本家の写真9 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)

牧野克次はここ杉本家で生まれ育った
杉本家の写真10 白石美知子様提供(アルバム写真を竹田美壽恵が撮影)
平成29年9月27日 白石美知子様よりTELでお聞きした杉本家の事
(ご主人様が入院中で、毎日面会に行かれている中お話して下さいました。)
①美知子様がご結婚された時、
お父様の忠道様が大事にされていた埴輪をもらったが、
その時に掛けられた言葉は忘れてしまった。若い時なので、深く考えもしていなかった。応接室に飾っていたが、手を滑らせて
落して割っ てしまった。皆から高価な物だったのにと言われました。割った物を接着する事が出来ると云う事も知りませんでした。
②杉本忠道様の母タミ
(牧野克次の兄の杉本忠治の妻)様は、太井家(牧野克次の実母
の再婚先)から杉本家に嫁して来られた方だった。タミさんの事を「太井のおばあちゃん!太井のおばあちゃん!」と呼んでいました。
➂杉本家は蔵が3つあり(年貢を入れる藏・衣裳を入れる藏など)トイレは4つか5つ
(庭師用・家族用・お客様用・女中用など)ありました。
④封建的な家で、ご飯は、父が留守の時は、先に取って別に置いていました。ご飯は、
お茶碗の口が手にあたると汚いのでさわらず小さなお盆の上において、よそってそのまま
渡すようにしていました。
⑤ タミ様は確か腎臓を悪くして亡くなった。忠治様は、タミ様が亡くなってから
えのもとひさのさんがお世話をして下さっていたのですが、耳が遠くなり電車の音が
聞こえなかったのか電車に轢かれて亡くなったんです。私は母の代理として長崎に住んで
いたので、その事を電報で知ったんです。
⑥長崎に住む父忠道様の所へ早く家族一緒に住みたいと母は思っており、大きな家は中々買い
手がつかず困っていたようです。
昭和19年頃だったか(戦争が激しくなってきた時)確か20円で売却されたと記憶しています。
⑦ 忠道氏の妻菊野様の実家は住吉の姫松(今の帝塚山)にあり藤沢という姓で、小児科の医師が養子に入られて阪大の
先生をされていた
⑧ 杉本忠道は長崎の商工会議所で、会議中に原爆に遭いワイシャツは血だらけになって帰って来たと聞いている。
白石美知子様に、宮嶋家にあった人物名不明写真の確認をして頂きました

杉本忠治(克次の兄)と妻 タミ(天誅組の水郡善之祐の姪)
右側は竹田がデジカメで撮影し拡大して白石様宅に持参した写真
杉本忠治様は家が地主で村長さんなどをされていた。
写真は、杉本忠治と妻タミであると白石美知子様に確認して戴いた。
○杉本家のお墓は道明寺にあると過去帳に書いてあったが、道明寺に確認しても眞光寺にもないといわれたがどこにあるのですか?とお聞きしました。
「道明寺天満宮の近くに村の墓がありそこに杉本家の墓があった。
杉本忠道が長崎に行ってから道明寺にあった墓は墓じまいして長崎で墓を作っています。
三女(年子様)が早くに亡くなり一族(忠治様の四男忠和様一家も)が入っています。」
(白石美知子様談)
○堺出身郷土画家 岸谷勢蔵は杉本忠道の姉の子(甥)で杉本忠治とタミの孫に
なり杉本家に泊まりがけでよく来ていた。私とは従兄になります。父は「せいぞう!
かんぞう!」と2人の甥の名前を呼んでいたのを覚えています。
(白石美知子様談)
堺出身郷土画家 岸谷勢蔵 (牧野克次の兄の孫だった!!)
郷土画家岸谷勢蔵の作品を中心に、近代の堺の都市を描いた資料を展示し、かつての堺の景観をたどります。建物疎開を行う前に、岸谷勢蔵が昭和19年に描いた宿院付近の疎開地区記録の原画を初公開します
と、堺市博物館より上記のようなポスターで企画展が行われました。その時の堺市民の方の投稿を読むと感動と尊敬をされている方でした。尚このポスター右下のお店の絵は、戦争後に焼失した生家を
岸谷勢蔵が描いたものですと堺博物館職員の方が話されていた。
牧野克次 の妻 ・ 牧野楠枝

牧野克次 牧野楠枝(牧野克次の妻)牧野家遺品
宮嶋(牧野)春の祖父になる・
宮嶋(牧野)春の父の純一は、克次と楠枝との長男
牧野楠枝(牧野克次の妻)の母 大江タケは大江廣元の末裔だった!
牧野克次が残した
牧野家過去帳に「大江タケの父、大江半次郎は大江廣元の末裔」と記している。大阪幸町5丁目枡屋
(大江姓)家の墓地に墓がある。
大江タケ(明治31年没72歳)は大江半次郎を父とし天王寺屋牧野平右衛門(岩之助)
(明治28年没70歳)の妻である。大江家を建てる為姓のみ公唱している。と記載されている。

大江タケと天王寺屋牧野平右衛門(岩之助) と思われる(牧野家遺品)


牧野克次が書き残した永代過去帖
大江廣元という人物
没年:嘉禄1.6.10(1225.7.16)
生年:久安4(1148)
鎌倉幕府創立期の首脳。長く中原姓を称していたが,建保4(1216)年に改姓を許され,大江姓に変わった。みずから中原広季と大江維光の2人を父と記しているが,実父,養父の区別はつけにくい。系図類にも実父は広季,維光,藤原光能などの諸説に分かれる。明経生から出身し,外記(局務)を専職とする下級貴族として朝廷実務の経験を積んだのち,30歳代半ばから幕府首脳への途に転身した。源平の内乱の勃発とともに兄の中原親能が早くから源頼朝の陣営にあり,広元も寿永2(1183)年7月の平家都落ちののちまもなく,鎌倉に下ったと思われる。頼朝に文筆の才を見込まれ,公文所別当および政所別当に取り立てられた。しかし,単なる実務家ではなかった。文治1(1185)年には御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」を務め(たとえば源義経の有名な「腰越状」も広元宛である),頼朝の側近としての地位を固める。そして同年,守護・地頭政策に関する献策により頼朝の信頼を高め,名実ともに首脳としての実力を発揮するようになった。文治・建久年間(1180年代後半~90年代前半)には特に対朝廷交渉に起用され,ほぼ連年,頼朝の使節として京都に滞在し,朝廷・幕府関係の基礎作りに働いた。首脳部内の序列を正治1(1199)年の名簿(十三人合議制)にみれば,広元は北条時政,北条義時に次ぐ第3位である。頼朝の死後,しばらく幕府は内部抗争に揺れ動いたが,一貫して北条義時と連携する立場を守り,義時の覇権を支えた。承久3(1221)年の承久の乱に際しては,積極的な京攻めを主張して,幕府の勝利に貢献している。頼朝に仕えて以後,因幡守,明法博士,左衛門大尉,大膳大夫,掃部頭,陸奥守などに任官し,正四位下に叙された。子孫は長井,毛利,那波などの諸氏に分かれ,幕府評定衆の職を受け継いだ。<参考文献>目崎徳衛「鎌倉幕府草創期の吏僚について」(『三浦古文化』15号)
(河内祥輔)
朝日日本歴史人物事典の解説より

宮嶋晃氏所有 「牧野家の遺品」
宮嶋晃氏所有 「牧野家の遺品」

宮嶋晃氏所有「牧野家の遺品」の表書きに宛先 山形県西村山寒河江
送り主 東京都四谷須賀町十四の三・ 牧野純一(克次の長男)と書かれている
寒河江莊の地頭大江氏の人脈
(山形県謎説き散歩編著 山形大学名誉教授 横山昭男より引用)
奥州藤原氏滅亡後、寒河江荘の地頭職は置賜地方とともに、大江廣元に与えられた。
平安時代の大江家の系譜を華やかに彩るのは、学者、文人としての血筋であるが、
大江廣元は、鎌倉幕府の創立に大きな役割を果たした人で、源頼朝の最高政治顧問で
あった。
承久の乱の(1221年)で朝廷方につき、幕府に抵抗して姿を消した廣元の長男親弘が
幕府の追及の眼を逃れて寒河江荘に潜伏して、後に赦免されたという。寒河江荘は、そののち「尊卑分脈」によると親広の
次男広時とその子孫によって相伝されるが、その寒河江荘は、北寒河江荘(現在の河北町域)を没収された領域であった。
大江氏が鎌倉から寒河江に来て土着するのは、元顕からで十三世紀末のことである。
南朝方として旗織を鮮明にした大江氏は、北寒河江荘の奪回をめざして北朝勢に対抗する
ため、要地に一族を配して防備を固めた。寒河江・・・の四域がその中心である。
漆川の戦い(1368)で、(最上氏の祖)軍に大敗したが、寒河江大江氏はその後も寒河江城を中心に、各城にはそのまま大江の
血筋が城主としている。
大江一族は、内部でそれぞれ自立性を強め、時には対立しながらも、全体として・伊達
最上・武藤など守護大名の間で必死に生き延びを図ってきたが、天正十二年(1584)六月
最上義光によって滅ぼされた。ただ白岩城主は、以前に最上氏に服属していた関係で、
最上氏改易の元和八年(1622)まで大江の名跡を保った。
大江家滅亡の後、最上義光は、大江家の荒廃を嘆く旧大江家家臣団の懇請を
受け、阿弥陀堂の再建を助け118石9斗余の黒印地(のちに朱印地)を寄進した。
この阿弥陀堂の別当に補されたのは、大江一族の良光である。
別当は安中坊無量寿院と称した。西川町吉川の地がそれである。
(北畠教爾)
寒河江城(さがえじょう)<寒河江市>
角川日本地名大辞典6 山形県より
中世~近世初期の城郭。現在の寒河江市の中心市街に所在。寒河江川末端の川岸段丘上に立地。標高100mの
平地に築かれた輪郭式の平城。天文3年の城絵図や江戸期に描かれた
絵図によれば、本丸は東西110m・南北162mで、濠幅14m、その内側に土塁があった。
二の丸は東西250m・南北330mで、濠幅15m、三の丸は東西400m・南北550mで、濠幅16m、その外側に幅約10mの
通水路がめぐらされていた。当城は、鎌倉期以後寒河江莊の地頭であった
大江氏18代の居城である。
大江氏初代親広は、はじめ本楯(現寒河江市)に城を築いたが、嘉禄年間に当地に居館を移し、8代時氏・9代元時が
整備拡張したといわれる。
寒河江大江家は、左沢・荻袋(現大江町)、白岩・高屋・柴橋(現寒河江市)、溝延(現河北町)
などに一族を分封し支配を固めた。その間、最上氏・伊達氏としばしば戦闘を繰り返したが、天正12年6月
最上義光の攻撃により大江氏は滅亡した。以後、大江氏の庶族寒河江光俊が入り、最上義光の次男家親も一時居城したが、
元和8年の最上氏改易によって当城も接収され、山形藩鳥居氏の預かりとなった。この時幕命によって二の丸・三の丸の土塁が崩され、濠も埋められ、さらに寛永13年当地が幕府領になるにともない廃城となった。
寒河江城(山形県)
寒河江城(山